2022年05月31日

2022/5/31早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙13:8-13です。

本文とメッセージはこちら

そして「愛は…絶えることが」(8)ないのですから、もしも何かの理由で誰かを愛せなくなったとしたら、それは愛ではなかったというべきでしょう。
ここでの愛は原語では「アガペー」であって、それは無条件の愛です。
私たちはこの愛を神様からもらって、(すべてが無価値にならないように)他の人を愛する必要があるのです。
また愛せるようにしていただけるのです。

「そのときには顔と顔を合わせて見る」(12)と、イエス様にお会いする再臨のことが書かれています。
そのときには地上の知識も預言も何もかも、イエス様によって教えられるでしょうから、必要なくなり、「すたれる」(10)のです。
ですからどんなに特別な賜物も天に持って行くことはできませんし、その必要もありません。
しかし、愛の思いとその行動は永遠に続くのです。
もちろん信仰も、そして主にお会いする希望も続きます。

永遠に残るものを追い求めましょう。
主から愛をいただき、愛せなくなってしまった人をも愛しましょう。

祝福を祈ります。
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2022年05月30日

2022/5/30早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙13:1-7です。

本文とメッセージはこちら

全ての賜物よりも「まさる」のが愛です。
愛がなければあらゆるものが無価値になるとパウロは言っています。
もちろんそれは聖霊によって神様が語らしめたもので、神のみこころです。

寛容、親切、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反せず、自分の利益を求めず、いらだたず、人の悪を思わず、不正ではなく真理を喜び、すべてを耐え、信じ、望み、忍ぶ…愛とはそういうものだとありますから、この際に自分をよく省みる必要がありそうです。

祝福を祈ります。
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2022年05月29日

2022/5/29主日礼拝

5月29日の放送です。

下記をクリックすると、YouTubeで再生開始されます。
2022年5月29日NGC SundayCelebration (YouTube)

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2022年5月29日NGC SundayCelebration (WMP)

また、下記をクリックすると、Real Playerで再生開始されます。
2022年5月29日NGC SundayCelebration (RAM)


出席票の記入にご協力をお願いします。



賛美「なんとすばらしい」
------------------------------------------------------------
前奏
招詞
礼拝祈祷
賛美「主をほめよ高らかに」
お知らせと報告など
賛美「God is Good All The Time」
音楽「ただ信じていなさい」
司会
使徒信条
主の祈り
祈祷
聖書 コリント人への第1の手紙13章4節
メッセージ「愛は寛容、親切」
祈り・応答
賛美「与えることと捨てること」(献金)
献児式
  賛美「主が私の手を」新聖歌474番
  式辞・祈祷
  賛美「昔から」
頌栄「父・御子・御霊の」新聖歌63番
祝祷
後奏
------------------------------------------------------------



司会:山本真一兄
説教:岡本伸之牧師
音楽:岡本節子副牧師
Praise & Worship
 WL:岡本節子副牧師
 Cho:Yoshika
 Pf:DJshuntaro
 Dr:Yoshika
 PA:Ai
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2022/5/29早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙12:22-31です。

本文とメッセージはこちら

脳、心臓、脊髄などは少しの損傷で大きなダメージとなる弱い部分ですが、それは体にとって非常に大切だからです。
キリストの体である教会も同じで、弱いと見える人やグループが重要な場合があるということです。
また「見栄えをよくするものでおおいます」(23)を第2版・第3版では「尊びます」と訳されていますが、もともとは覆いをかけるという意味がありますから、衣服などで覆うという意味にも解釈できます。
それは調和のため、「配慮し合うためです」(25)とあります。

教会は「苦しみ」など思いを共有するところです。
それはせめて一週間ごとの交わりがなければ有り得ないことでしょう。
また「すべての部分」(26)とありますから、自分の気に入った人のことだけを気にかけていればいたわっているということではなく、教会全体を思って祈り、支えることが大事です。

次にパウロは、私たちが各器官であるということから、教会の働きへの任命について説明しています。
使徒、預言者、教師は人に教える働きです。
奇跡やいやしの賜物を持つ人は祈る働きです。
助ける者、治める者は教会の運営面で奉仕をする人でしょう。
異言を語る者が最後にありますが、これについては注意を要するので、パウロは後にその説明をしています。

ここで大切なのは、「皆が…でしょうか。」(29-30)という点です。
それぞれの賜物が違っていて良いのです。
「あの人にはこの賜物があるからすぐれている」「この人には与えられていないから劣っている」と考えるのは間違いなのです。
個人も教会も主の主権によって与えられた賜物を感謝して、主のために精一杯用いるべきなのです。
もしも「自分だけが賜物を与えられた」と思うなら、誰よりもへりくだって、その賜物を他の人のために用いなければなりません。

そしてパウロは愛という賜物に関しては、これらよりも「すぐれている」(13:13)と明言しています。
誰もが持つべき賜物だからです。

祝福を祈ります。
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2022年05月28日

2022/5/28早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙12:12-21です。

本文とメッセージはこちら

パウロがまだ救われる前にクリスチャンを迫害していたとき、イエス様が天から「なぜわたしを迫害するのか」(使徒行伝9:4)と、パウロに語りかけました。
それでパウロは「教会とはイエス様そのものなのだ」と知ったと思われます。
教会とはクリスチャンの共同体であり、イエス様が命をかけて滅びから救い、そして代価を払って買い取った(贖った)イエス様のものです。
教会が苦しむことは主イエスご自身が苦しむことで、教会の栄光はイエスご自身の栄光です。

まさに教会はイエス様のからだなのです。
体であるということから教会のあるべき姿が明確になります。
第一には、教会は「一つ」です。
別の方向に進むことはできません。
また一部が痛めば全体も痛みます。
全体の健康がなければ部分の健康もないのです。
それが教会です。

第二には、クリスチャンは「器官」です。
それぞれが機能・働きを持っているのです。
それを果たさなくてはなりません。
器官ですから皆がなくてはならない存在です。
また器官であってそれぞれに機能がありますから、互いに違いがあります。

以上から多くの規範を学ぶことができます。
クリスチャンはキリストを中心にして一致すべきです。
クリスチャンは他の兄弟姉妹の痛みも喜びも共感すべきです。
クリスチャンは教会全体の健全さを求める必要があります。
クリスチャンは教会において自分の機能や働きを知って、その使命を果たし貢献する必要があります。
クリスチャンは自分が器官なので、教会にとってかけがえのない大切な存在であることを自覚する必要があります。
そして他のクリスチャンも大切な存在であり、自分にはない機能を持っていることを知って、感謝する必要があります。
クリスチャンは他の人が自分と違う考え・感じ方・結論・行動パターンを持っていることを肯定的に受け止める練習が必要です。

祝福を祈ります。
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2022年05月27日

2022/5/27早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙12:1-11です。

本文とメッセージはこちら

次にパウロは御霊の賜物について教えます。
これはすばらしいものですが、残念なことにその賜物の違いによって分裂・分派が起きることがあるのです。
そうならないようにパウロは賜物は違ってもみな同じ聖霊から与えられるのだから1つなのだと強調します。

まずクリスチャンはみな聖霊の促しによって救われた聖霊の宮であることが大前提として述べられています。
聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」(3)と言うことはできないからです。
ですから同じ御霊によって賜物が与えられているので、分裂・分派が起こってはならないのです。

ここでは賜物のほかに、奉仕と働きも同じように主からのものと書かれています。
原語では賜物は「カリスマ」で、恵みとして与えられる能力です。
奉仕は原語では「ディアコニア」で、その人に任せられた係りや職務などを表します。
働きは原語では「エネルゲイア」で、力を発揮して主の栄光を表すようなものを表します。
これらは3つに分類するというのではなく、どんな人のどんなわざもこれら3つの側面があると考えるべきでしょう。
分離できるものではありません。

大切なことはどれも主から与えられているということです。
ですから自分の賜物、奉仕、働きがすばらしいからと言って誇ることもいけませんし、こちらの方が優れていると言ってもそれは間違いなのです。
それはクリスチャン同士でも、グループ同士でも、教会・教団・教派間でも言えることです。
自分とは違う賜物を持つ人(たち)を、主が与えられたことのゆえに感謝しましょう。
また自分の賜物を主のゆえに感謝し、その賜物を大いに生かしてゆきましょう。

祝福を祈ります。
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2022年05月26日

2022/5/26早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙11:27-34です。

本文とメッセージはこちら

主の晩餐から話題は聖餐に移ったような印象を受けますが、元来初代教会では主の十字架を覚える「聖餐」は、食事と一緒に行われたようです。
それほど教会では交わりにおいて食事が大切にされてきたのです。
ユダヤの伝統でも、食事を共にするのは家族であり、また同じものを食べることによって同じ身体が作られると思われていたのです。

それでパウロは「自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」(28)と言っています。
これはあきらかに聖餐のことです。
「みからだをわきまえないで食べ、また飲む」(29)とは一義的には、自分勝手に食事をすることですが、「みからだ」とありますから、十字架にかかられたイエス様のみからだであり、その救いの確かさと愛の限りなさ、そしてみこころの厳かさということでしょう。

そのような主のみからだの意味、すなわち十字架の意味をわきまえないで勝手に飲み食いするならば、主のさばきを自ら招く結果になるというのがパウロの教えるところであり、戒めとしてコリントの教会の実例が挙げられています。
ただしここにあるような「さばき」(29)も、クリスチャンに対しては、永遠の滅びではありません。
「この世とともにさばきを下されることがないように」(32)とありますから、悔い改めて「わきまえる」(31)者となるためです。

それにしても私たちは、主からさばかれる前に「自分をわきまえる」(31)ようでありたいと思います。
すなわち、主の聖餐において十字架のイエス様のみからだをわきまえているか、聖餐に関連して食事などの交わりにおいて自分勝手ではないかどうかをよく吟味して、みこころを知って従うということです。

祝福を祈ります。
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2022年05月25日

2022/5/25早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙11:17-26です。

本文とメッセージはこちら

教会の混乱の第二番目は分裂と、それをもたらしそうな主の晩餐についてです。
分裂も「やむを得」(19)ない場合があるとパウロは言います。
「本当の信者が明らかにされるため」(19)です。
間違った神観、聖書観、教会観などを持ち続ける人は、教会の交わりからは去って行くのも「やむを得ない」ということです。
ただしパウロは冷たい心でこれを書いているのではなく、「涙ながらに」とピリピ3:18で書いているように、大きな痛みを伴ってのことです。

パウロが最も問題にするのは上述のことではなく、主の晩餐が害になっていてそれで「分裂があると聞いて」(18)いるからです。
主の晩餐とはイエス様の最後を思いながら、その救いにあずかった者たちが心を1つにして、感謝し信仰を新たにするものです。
しかし、そうではなく「害になっている」(17)というのです。

その原因は豊かな者は自分の食べ物を楽しんで、貧しい者に分け与えもせずにいるということです。
それで貧しい人々は恥ずかしい思いをしていたのです。
主の晩餐(または聖餐)はイエス様を覚えるためのものですから、そこには愛がなければなりません。
ならば主にある交わりも同じで、互いのための思いやりが大切です。

教会には様々な面で乏しい人、悲しんでいる人、弱っている人などが集っています。
思いやることに「これで十分」ということはないでしょう。
主を覚えるためにも、分かち合い支え合いましょう。

祝福を祈ります。
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2022年05月24日

2022/5/24早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙11:1-16です。

本文とメッセージはこちら

偶像の話題の次に教会の混乱についてパウロは問題にします。
ひとつは男女の外見についてです。
ここでは、男性のかぶり物、女性のかぶり物、男性の長い髪、女性の長い髪について語られています。
もしもそれを普遍的な命令として解釈するなら、「絶えず祈りなさい」と言われている私たちにとって、男性は帽子やヘルメットを被ることは罪であり、女性は常にベールを被っていないと罪になります。
またイエス様が長い髪をしていたら、それは「男として恥ずかしい」ということになるでしょう。
これは、「そのような習慣は私たちにはな」(16)いとパウロが言うように、その時代の習慣に則って、語られていることです。

パウロが意味していることは、その時代の習慣や常識から考えて恥になるような外見は避けようということです。
クリスチャンは律法的な生き方はしませんが、自分勝手でいいというわけではなく、「神の栄光を表す」という喜びの動機があるからです。

またパウロは、「男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神」(3)とも言っています。
男性は女性よりも優位にあるように見えても、結局かしらはキリストであり神なのです。
「男性には負けない」「女性には負けたくない」などと対抗心を持つのは意味がありません。
要は神に従うことです。

祝福を祈ります。
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2022年05月23日

2022/5/23早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙10:23-33です。

本文とメッセージはこちら

「自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。」(24)という生き方はクリスチャンの基本です。
偶像に関しても同じことが言えます。
自分の信仰だけを考えるなら、偶像にささげられたものを食べても、それで害を受けるということはないでしょう。
しかし、信仰というものを外面的にとらえる習慣からまだ抜け出せない人は、それが苦になって、不快感や不信感を抱く場合があるというのです。
人の心を思いやるという観点からも、偶像との関わりは極力気をつけるべきです。

ここでパウロは偶像問題以外にも共通の、黄金律を示します。
それは「何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(31)ということです。
これはクリスチャンのすべての動機となるべきものです。
神に救われて神を愛する者は、「許可されているかどうか」、すなわち「許可されている範囲で、自分の好きなことをしたい」というような、自己目的的な律法主義の生き方をしません。
クリスチャンなら誰もが、神様の栄光が表されたらうれしくなります。
それを動機として生きるものなのです。

祝福を祈ります。
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2022年05月22日

2022/5/22主日礼拝

5月22日の放送です。

下記をクリックすると、YouTubeで再生開始されます。
2022年5月22日NGC SundayCelebration (YouTube)

また、下記をクリックすると、Windows Media Playerで再生開始されます。
2022年5月22日NGC SundayCelebration (WMP)

また、下記をクリックすると、Real Playerで再生開始されます。
2022年5月22日NGC SundayCelebration (RAM)


出席票の記入にご協力をお願いします。



賛美「栄光の雲が宮に満ちて」
------------------------------------------------------------
前奏
招詞
礼拝祈祷
賛美「主のもとへと走り出そう」
司会
お知らせと報告など
賛美「キリストは生きている」
   「陶器師、主よ」
使徒信条
主の祈り
祈祷
聖書 コリント人への第1の手紙12章4〜7節
メッセージ「才能と賜物」
祈り・応答
賛美「主よ捧げます」(献金)
頌栄「父・御子・御霊の」新聖歌63番
祝祷
後奏
------------------------------------------------------------



司会:中川宏道兄
説教:岡本伸之牧師
Praise & Worship
 WL:Yama
 Cho:Setsuko
 Key:Setsuko
 Dr:Nobu
 PA:DJshuntaro
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2022/5/22早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙10:14-22です。

本文とメッセージはこちら

偶像との実際的な関わりについてパウロは警戒を促します。
特に偶像にささげられた肉についてです。
ささげられたからと言って、それで肉の状態そのものが変わるわけではありませんから、何も問題がないようにも思えますが、パウロは悪霊との関わりに線引きができなくなることを警戒するようにと戒めています。

偶像とはただの物体ですから、何もない空虚なものです。
しかしその偶像を用いて悪霊が人間に影響力を行使するのです。
クリスチャンには何も禁じられていないからと言って、無差別に受け入れることは危険です。
偶像や世の悪しき習慣を無警戒で受け入れるのではなく、信仰や救いに害にならないかどうか、吟味して判断しましょう。

祝福を祈ります。
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2022年05月21日

2022/5/21早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙10:1-13です。

本文とメッセージはこちら

8章から始まった偶像の問題がまだテーマとして続いているというのが、多くの註解者たちの見解です。
(前章は、「偶像に関連する問題も信仰の自由」いう人々に対して、本当の自由とは何かを説いており、その流れで働き人の報酬や宣教についての真理にも触れていたのです。)

偶像礼拝を警戒させるために、イスラエルの過去について思い起こさせています。
教会が1つであるように、イスラエルも1つでしたが、神のみこころにかなわず滅ぼされたのです。
それは偶像礼拝のためでした。

クリスチャンで像を拝む人はほとんどいないでしょうが、神以外のものを神の位置に置いてしまえば偶像礼拝ということになるでしょう。
偶像を拝むのは自分の願望・欲得のためですから、神以外のものを神のようにしてしまうときも、同じように願望・欲得がまさっていないか、警戒する必要があります。
イスラエルのように姦淫、主を試す、つぶやくなどということがないかどうか警戒しましょう。

祝福を祈ります。
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2022年05月20日

2022/5/20早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙9:19-27です。

本文とメッセージはこちら

これまで述べて来たことをまとめるようにして、パウロは自分の生き方を宣言しています。
相手がどんな人であれ、その人の立場に自分の身を置くということです。
割礼のある人とない人、結婚している人としていない人、奴隷と自由人、偶像の肉を食べる人とそれを気にする人、フルタイムの使徒とそれを支える教会員、権利を行使する人としない人などなど、同じクリスチャンといってもあらゆる立場・状態の人がいます。
パウロはここで全てのクリスチャンに共通する大切な生き方を教えているのです。

そしてそれは伝道にも言えることです。
相手の心を思いやり、その立場に立たなければ、愛の主を伝えることはできませんし、十字架のメッセージから愛を伝えることはできません。

しかしここで忘れてはならない大切なことは、ノンクリスチャンや世の中に妥協して、自分の保身を図るのとは全く違うということです。
自分はむしろ奴隷のようになることなのです。
ノンクリスチャンに妥協して楽になることではありません。
むしろ「自分のからだを打ちたたいて服従させます。」(27)というように、苦しい努力が求められるのです。

人生にあって私たちは楽にしていれば良いということは少なく、むしろリスクを負って挑戦して勝利を勝ち取って行かなければならないことが多いのです。
ならばパウロのように「朽ちない冠を受けるために」(25)、働きの「失格者にならないように」(27)、自分を「服従させて」(27)行きましょう。

祝福を祈ります。
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2022年05月19日

2022/5/19早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙9:13-18です。

本文とメッセージはこちら

宮に奉仕する祭司が、その奉納物やいけにえから相当の部分を受け取るように神様は定められました。
祭司たちはそれらを売るなどして生活をしていました。
また直接の記録はありませんが、主イエスはフルタイムの働き人たちには「福音の働きから生活の支えを得るように」(14)ご命令なさったようです。
そして実際そのようにして教会・宣教が成り立ってきました。

しかしパウロは、「私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」(15)と語ります。
第一にそれは誇りだからです。
報酬を求めないことがパウロの誇りであって、それは自分が報酬のためではなく主のために働いているという証しとなるからでしょう。
第二にそれは義務であるからです。
主から永遠の赦しと救いをいただいたので、それを人に伝えるのは特別にすばらしい働きというよりも、当たり前にすべきことと考えたのです。
第三にそれは無報酬の満足感です。
無報酬であることによって、報酬を受けるときの喜びよりも、伝えるときや救われるときの喜びを際立たせたいとの思いがあったのでしょう。

主のために働く者に主は良いものを惜しまれません。
しかしまた私たちは「報いがなくても主のために働くのだ」という決心、主が喜ばれることが私の満足だという思いが必要です。
それは主を愛するということなのです。

祝福を祈ります。
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2022年05月18日

2022/5/18早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙9:1-12です。

本文とメッセージはこちら

次にパウロは献身と報酬について述べます。
パウロはピリピの教会からは献金によって支えられることを「霊的祝福」(エペソ1:3)として喜びましたが、コリント教会からは何も受けませんでした。
コリント教会の信仰がまだ成熟していなかったからです。

しかしそれでコリントの人々の中には、パウロが献金を受けていないのは使徒ではないからだと、その権威を疑う人もいました。
ほかの使徒たちは「生活のために働かな」(6)いで、献金によって生活していたからです。

それに対してパウロは自分にはその権利があるということを、兵士、農夫、そして「私たちのために」(10)書いてあるという「脱穀をしている牛」(9)を例にあげて主張しています。

主のために奉仕する者はすばらしい報酬にあずかる権利があるので、それを否定する必要はありません。
ある人は経済的な面で、また霊的な祝福で、さらには生活などの面で、さまざまに祝福があるのです。

それとともに、その権利を用いないで耐え忍ぶ人を尊重する必要があります。
彼らは決してその権利がないのではなく、主の栄光のために判断しているのです。
またもしかしたら私たちの信仰の足りなさのゆえに、その人と重荷を分かち合えないでいるのかもしれません。
パウロのように主のために忍んでいる人を尊重し、またその重荷を担い合いましょう。

祝福を祈ります。
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2022年05月17日

2022/5/17早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙8:1-13です。

本文とメッセージはこちら

コリントのような異教の街に住む者は常に偶像とのせめぎ合いになりました。
食品も偶像にささげられたものが口に入ることがあったので、そのことの是非が議論になっていたのでしょう。
知識のある人は「世の偶像の神は実際には存在せず」(4)と知っているので気にしないが、信仰の弱い人は何か偶像の影響があるのではないかと恐れて(または気持ち悪くて)食べないというのです。

しかしここで大切なことをパウロは冒頭に語ります。
「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育て」(1)るというのです。
神学的に問題ないという知識があっても、それを押し通すのではなく、愛をもって信仰の弱い人を配慮し、その信仰に悪影響を与えないようにしてあげるのが、つまりつまずきを与えないようにすることが最も大切なことであるというのです。

クリスチャンであっても未だに偶像を断ち切れない人も弱いと言えますが、偶像を断ち切った後も何か偶像を気にしてしまう人もいて、そういう人をパウロは「弱い人たち」(9)と表現します。
そのような人々の「つまずきとならないように気をつけなさい。」(9)とパウロは愛によって語っています。

祝福を祈ります。
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2022年05月16日

2022/5/16早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙7:25-40です。

本文とメッセージはこちら

クリスチャンや教会のあり方が聖書的であるということは何よりも重要なことです。
どんな人間的な事情があろうとも、人間を越えた不思議な現象があったとしても、聖書から離れてしまっては、神の栄光も勝利も、解決も前進も、維持も存続も望めません。
そればかりか異端となって神に敵対するものにならないとも限りません。

当然パウロは聖書的です。
しかし聖書があらゆる時代のすべての事柄に指示を与えているわけではありません。
そこでパウロは「主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べ」(25)ています。
これもまた聖書的な態度です。
ただしそれは「信頼」が必要で、信仰の共同体の中で認められる必要があります。

「差し迫っている危機」(26)とは終末が考えられていたわけですが、その後の迫害に関しても聖霊は考えておられ、結婚のことをパウロに語らせたのでしょう。
様々な事例に共通するように、結婚はただ自分の願いを優先させるのではなく、主のみこころと主のときを熟慮し、主の栄光と証のためにするべきです。

しかし「束縛しようとしているのではありません。」(35)とあるように、結婚は個人の意思が尊重されるものです。
そしてそれだけに強く確かな聖書的信仰が必要なのです。

祝福を祈ります。
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2022年05月15日

2022/5/15主日礼拝

5月15日の放送です。

下記をクリックすると、YouTubeで再生開始されます。
2022年5月15日NGC SundayCelebration (YouTube)

また、下記をクリックすると、Windows Media Playerで再生開始されます。
2022年5月15日NGC SundayCelebration (WMP)

また、下記をクリックすると、Real Playerで再生開始されます。
2022年5月15日NGC SundayCelebration (RAM)


出席票の記入にご協力をお願いします。




------------------------------------------------------------
前奏
賛美「あがない主」
招詞
礼拝祈祷
お知らせと報告など
賛美「いのちの光」
   「わが魂の羊飼い」
   「陶器師、主よ」
司会
使徒信条
主の祈り
祈祷
聖書 コリント人への第1の手紙9章18〜23節
メッセージ「自由の使い道」
祈り・応答
賛美「もっと満たしてください」(献金)
頌栄「父・御子・御霊の」新聖歌63番
祝祷
後奏
------------------------------------------------------------



司会:竹内清兄
説教:岡本伸之牧師
Praise & Worship
 WL:岡本牧師
 Cho:Yoshika
 Pf:DJshuntaro
 PA:Ai
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2022/5/15早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、コリント人への第1の手紙7:17-24です。

本文とメッセージはこちら

パウロはコリントの教会のクリスチャンたちに具体的な指示を書いています。
具体的であるということは現実の状況に即して考えられているということですから、他の教会や他の時代などでは通用しない場合もあります。
パウロは「私は、すべての教会に、そのように命じています。」(17)という表現で、あくまでも自分自身の指導方であるということを示唆しています。

これらは絶対永遠の命令ではありませんが、当然、多くの教会に当てはまることでもあります。
ただ大切なことは、律法として受け取って「これは禁止」「あれは容認」という理解ではなく、そこにある霊的な真理です。

パウロは割礼の「跡をなくそうとしてはいけません」(18)というからといって、割礼派ではありませんし、「割礼を受けてはいけません」(18)と言っているからといって、無割礼派でもありません。
割礼の有無が信仰の価値基準にはならないということを言いたいのです。
また「奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。」(21)と言ったからといって、奴隷制度支持者ではありません。
奴隷か自由人かに左右されずに神の幸いや恵は与えられるということを言いたいのです。

「これこれをしてはいけない」とか「この方がより信仰的だ」というような、律法的・外面的信仰基準はさばきや分派を起こしやすいものです。
また社会問題・政治問題もそれを信仰と混同させるとさばきや分派を起こしやすいものです。
主の恵みやみわざはそれらを越えているのだという真理に立ち続けましょう。

祝福を祈ります。
posted by DJshuntaro at 05:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | バイブルメッセージ