本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、へブル人への手紙10:11-25です。
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イエス様はご自身を永遠の「いけにえ」(12)としてささげ、神の右に着かれました。
それは父なる神と同じ地位である、すなわち神そのものであられるということです。
それは「敵がご自分の足台となる」(13)ときまでであり、全能の主の目からは全宇宙もまた霊的領域も変化しているということです。
主の十字架を受け入れた者は「聖なるものとされる」(14)ことが目的ですが、それは人間的な修養努力による頑張りだけの力ではなく、「一つのささげ物」(14)すなわち、イエス様ご自身の十字架と復活の力によってであり、また今も神の権威をお持ちである御子イエス様の権能によるのです。
ヘブル書の著者、また初代教会の指導者たちがここにあるような真理を確信するに至ったのは、イエス様の教えと旧約(特に神殿での祭儀)を十分に吟味したことによります。
その上で聖霊による理解です。
15節から聖霊の証しが書かれていますが、それもまた聖書にあるものです。
すなわち聖書と聖霊とは切り離すことができないのです。
聖書は神のことば、聖霊は神ご自身です。
そのような信仰生活を送りましょう。
ところで、「罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。」(18)とあります。
主の十字架によって赦された私たちにはただ十字架だけが必要十分であるということを銘記しましょう。
そして何かあるごとに、必ず主の十字架のもとに行き、十字架を根拠として祈り解決しましょう。
聖所とは、これまで述べられてきた、聖なる神のおられるところです。
幕屋や神殿では、そこに入るためには、罪赦されるための身代わりの血が必要でしたが、「イエスの血によって大胆に聖所に入ることができ」(19)るようになりました。
このイエス様が「新しい生ける道を開いて」(20)くださったからであり、また偉大な祭司としてとりなしてくださるからです。
著者は「真心から神に近づこうではありませんか。」(22)、「希望を告白し続けようではありませんか。」(23)、「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。」(24)と勧めています。
どれも大祭司であるイエス様が贖いをなし、今もとりなしていてくださるからこそです。
また「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(25)とあります。
クリスチャンは一人では本来の歩みができないものです。
励ましが必要であり、また人間関係の難しさの中で成長できるものなのです。
何よりも大祭司であるイエス様のもとで、神と交われるのですから、イエス様のもとに集まるのです。
主の礼拝に集まることはクリスチャンの生命線です。
祝福を祈ります。