本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネの黙示録3:14-22です。
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ラオディキアの教会に対しては、何の褒めることばもありません。
そのような教会とは、すなわち「生ぬる」(16)い教会です。
富んでいて、見えていて「足りないものは何もない」(17)と自負していても、その信仰は、神様が「吐き出」(16)したくなるようなものでした。
確かにこの世の価値観と妥協して、教会らしくないやり方をすれば、人も集まり収入も増えて、教会が富んでいるように見せかけることも可能かもしれません。
しかし、主から吐き出されるようにして見捨てられてしまったら、教会はすぐにでも衰退し「みじめで、哀れ」(17)なものになってしまうのです。
生ぬるさとは神なき価値観との妥協の産物です。
私たちがすべきことは(どの教会も同じ警告を受けていると思われますが)、金のように不変の価値観を得ることです。
また裸の恥を現さないために主の十字架のきよめを着ることです。
そして何が主のみこころかをしっかりと見ることのできる、目薬である聖書と聖霊に従うことです。
もしも主から「叱ったり懲らしめたり」(19)というような試練を受けたなら、それは主の「愛する者」(19)だという証拠です。
生ぬるい状態から離れて「熱心に」(19)悔い改め、すなわち方向転換をしましょう。
祝福を祈ります。