本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書8:48-59です。
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昨日の箇所41節には、「淫らな行いによって生まれた者ではありません。」とありますが、これはイエス様へのあてつけで、マリアが結婚の前にイエス様を生んだからです。
それは聖霊によるのであり、マリアが石打ちにならなかったことからすると、常識を超えた出来事であったことがわかります。
しかし、それを彼らが非難してのことでした。
ここでは、一度はイエス様を信じようかという気持ちになった人々も、多くがイエス様を理解できないでいることがわかります。
そしてだんだんと心が離れてゆき、最後には「イエスに投げつけようと石を取った」(59)ことまでしたのです。
これは石打ちで殺すことにもなるものです。
このようにどんなに信仰があるように見えても、もしも、イエス様が神であること、イエス様の救いというものを、受け入れていないなら、「悪魔である父から出た者」(44)のままなのです。
明確な救いを体験しましょう。
また教会に来ていても救いが明確でない人のために、祈り愛して導きましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月31日
2025年01月30日
2025/1/30早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書8:31-47です。
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せっかくイエスのことばを聞いた人々も、多くが離れてゆきました。
それはイエス様が真理を語ったからです。
彼らは「私たちはアブラハムの子孫」(33)であるというプライドがあったので、自分を変えてまで受け入れる思いがなかったのです。
このように、人々の心が離れて行く様子がわかります。
主のみわざは、人間の心を繋ぎとめるのが目的ではないのです。
私たちも人にではなく、主の心にかなう教会・生活であるように、「(イエスの)ことばにとどまる」(31)弟子になりましょう。
そして真理のことばを語りましょう。
祝福を祈ります。
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せっかくイエスのことばを聞いた人々も、多くが離れてゆきました。
それはイエス様が真理を語ったからです。
彼らは「私たちはアブラハムの子孫」(33)であるというプライドがあったので、自分を変えてまで受け入れる思いがなかったのです。
このように、人々の心が離れて行く様子がわかります。
主のみわざは、人間の心を繋ぎとめるのが目的ではないのです。
私たちも人にではなく、主の心にかなう教会・生活であるように、「(イエスの)ことばにとどまる」(31)弟子になりましょう。
そして真理のことばを語りましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月29日
2025/1/29早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書8:21-30です。
本文とメッセージはこちら
イエス様が語っておられることは、救われた私たちにはよく分かります。
「去って行」(21)くとは天に帰られること、「罪の中で死」(21)ぬことになるとは死のさばきを意味していることは明白です。
しかし、救われていない人にはわかりません。
救いの真理は聖霊によって目が開かれなければ、わからないからです。
私たちが信じたのは、自分の理解力ではなく、ただ神様の恵みであることを忘れないで、感謝しましょう。
また謙遜でありましょう。
「多くの者がイエスを信じた。」(30)とあります。
同じことを聞いても、イエス様を拒絶する者と信じる者に分かれるのです。
ですから伝道など主のわざには、誰でもが信じて変わるような万能のことばや方法論があるわけではありません。
聖霊によるのです。
そしてその時に、救いに備えられた人がいるのです。
効率や効果的な方法を探すよりも、主に頼り聖霊の力によるほうが、はるかに前進できるものです。
祝福を祈ります。
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イエス様が語っておられることは、救われた私たちにはよく分かります。
「去って行」(21)くとは天に帰られること、「罪の中で死」(21)ぬことになるとは死のさばきを意味していることは明白です。
しかし、救われていない人にはわかりません。
救いの真理は聖霊によって目が開かれなければ、わからないからです。
私たちが信じたのは、自分の理解力ではなく、ただ神様の恵みであることを忘れないで、感謝しましょう。
また謙遜でありましょう。
「多くの者がイエスを信じた。」(30)とあります。
同じことを聞いても、イエス様を拒絶する者と信じる者に分かれるのです。
ですから伝道など主のわざには、誰でもが信じて変わるような万能のことばや方法論があるわけではありません。
聖霊によるのです。
そしてその時に、救いに備えられた人がいるのです。
効率や効果的な方法を探すよりも、主に頼り聖霊の力によるほうが、はるかに前進できるものです。
祝福を祈ります。
2025年01月28日
2025/1/28早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書8:12-20です。
本文とメッセージはこちら
イエス様に敵対していた人々は、何を聞いてもそれを否定しようとしました。
イエス様が「世の光」(12)であったなら、彼らにとっては都合が悪いのです。
パリサイ人は律法に安住してその利権をむさぼっていたので、イエス様の教える真理は彼らの立場を危うくするのです。
確かに証言は複数あった方が、信頼できますし、聖書でもそのように書かれています。
だからといって1人の証言が、常に間違いであるというわけではありません。
それは全くの詭弁です。
そのように人間は神様に従いたくないと思うと、自分の都合の良い理屈を作ってしまいます。
クリスチャンであってもそのようなことがないか、考えてみる必要はありそうです。
イエス様は「父が、わたしについて証ししておられます。」(18)と言われます。
イエス様と御父は一体です。
そのような愛のすばらしい交わりに入れていただいた私たちですから、みこころに従うときは喜びと安心を持ちましょう。
安心して従いましょう。
祝福を祈ります。
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イエス様に敵対していた人々は、何を聞いてもそれを否定しようとしました。
イエス様が「世の光」(12)であったなら、彼らにとっては都合が悪いのです。
パリサイ人は律法に安住してその利権をむさぼっていたので、イエス様の教える真理は彼らの立場を危うくするのです。
確かに証言は複数あった方が、信頼できますし、聖書でもそのように書かれています。
だからといって1人の証言が、常に間違いであるというわけではありません。
それは全くの詭弁です。
そのように人間は神様に従いたくないと思うと、自分の都合の良い理屈を作ってしまいます。
クリスチャンであってもそのようなことがないか、考えてみる必要はありそうです。
イエス様は「父が、わたしについて証ししておられます。」(18)と言われます。
イエス様と御父は一体です。
そのような愛のすばらしい交わりに入れていただいた私たちですから、みこころに従うときは喜びと安心を持ちましょう。
安心して従いましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月27日
2025/1/27早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書8:1-11です。
本文とメッセージはこちら
人が人をさばく、すなわち罪に定めるということの問題がここにあります。
彼らは律法を盾にとっていますから、全く正しいということができます。
その点においては、彼らのしていることは一点の批判もできません。
しかし、主イエスはそれを放置しませんでした。
「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」(7)と言われたのです。
誰も投げることはできませんでした。
イエス様は訴える者たちを告発するわけではありませんでしたが、結局この女性をさばく資格のある者はないのだとうことを、悟らせたのです。
神様の赦しがここにあります。
罪をさばく律法は有効です。
罪は裁かれなければなりません。
しかし人がさばくのではないのです。
神様だけがさばく資格をお持ちです。
しかし、その神様は「わたしもあなたにさばきを下さない。」(11)と言ってくださいました。
それは罪の身代わりになってくださったイエス様だから言えることなのです。
感謝しましょう。
そして「これからは、決して罪を犯してはなりません。」(11)との愛のことばを、心に受けましょう。
祝福を祈ります。
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人が人をさばく、すなわち罪に定めるということの問題がここにあります。
彼らは律法を盾にとっていますから、全く正しいということができます。
その点においては、彼らのしていることは一点の批判もできません。
しかし、主イエスはそれを放置しませんでした。
「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」(7)と言われたのです。
誰も投げることはできませんでした。
イエス様は訴える者たちを告発するわけではありませんでしたが、結局この女性をさばく資格のある者はないのだとうことを、悟らせたのです。
神様の赦しがここにあります。
罪をさばく律法は有効です。
罪は裁かれなければなりません。
しかし人がさばくのではないのです。
神様だけがさばく資格をお持ちです。
しかし、その神様は「わたしもあなたにさばきを下さない。」(11)と言ってくださいました。
それは罪の身代わりになってくださったイエス様だから言えることなのです。
感謝しましょう。
そして「これからは、決して罪を犯してはなりません。」(11)との愛のことばを、心に受けましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月26日
2025/1/26主日礼拝
1月26日の放送です。
下記をクリックすると、YouTubeで再生開始されます。
2025年1月26日NGC SundayCelebration (YouTube)
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2025年1月26日NGC SundayCelebration (RAM)
出席票の記入にご協力をお願いします。
------------------------------------------------------------
前奏
賛美「あなたの前に行きます」
「主はわれらの太陽」
お知らせと報告など
賛美「どんな時でも」
「十字架のほかに」
「キリストにはかえられません」新聖歌428番
司会
使徒信条
主の祈り
祈祷
聖書 ヨハネによる福音書9章1〜7節
メッセージ「神のみわざが現れるため」
祈り・応答
賛美「私は奇蹟を信じる」(献金)
「土の器」
頌栄「父・御子・御霊の」新聖歌63番
祝祷
後奏
------------------------------------------------------------
司会:山本真一兄
説教:岡本伸之牧師
Praise & Worship
WL:岡本牧師
Cho:Miyuki&Yoshika
Key:Miyuki
Dr:Yoshika
PA:Ai
YouTube&Camera:Yokoi
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------------------------------------------------------------
前奏
賛美「あなたの前に行きます」
「主はわれらの太陽」
お知らせと報告など
賛美「どんな時でも」
「十字架のほかに」
「キリストにはかえられません」新聖歌428番
司会
使徒信条
主の祈り
祈祷
聖書 ヨハネによる福音書9章1〜7節
メッセージ「神のみわざが現れるため」
祈り・応答
賛美「私は奇蹟を信じる」(献金)
「土の器」
頌栄「父・御子・御霊の」新聖歌63番
祝祷
後奏
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司会:山本真一兄
説教:岡本伸之牧師
Praise & Worship
WL:岡本牧師
Cho:Miyuki&Yoshika
Key:Miyuki
Dr:Yoshika
PA:Ai
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2025/1/26早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書7:37-53です。
本文とメッセージはこちら
いよいよイエス様は、大声で人々に宣教を始めました。
祭りの日には大勢の人々が世界の各地から集まっていたのです。
またそのことによって、ユダヤ人の中では分裂が起こりました。
福音の宣教によっては、賛同する人もあれば、反対する人もあり、分裂が起こることもありうることです。
しかし、このニコデモのように、真理に根ざした考えを持っている人もいます。
彼はイエス様のもとに行って、教えを乞い、真摯に求道していたのです。
恐れずに大胆に真理を語るべきです。
誰が信じるかは主の主権にゆだねましょう。
祝福を祈ります。
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いよいよイエス様は、大声で人々に宣教を始めました。
祭りの日には大勢の人々が世界の各地から集まっていたのです。
またそのことによって、ユダヤ人の中では分裂が起こりました。
福音の宣教によっては、賛同する人もあれば、反対する人もあり、分裂が起こることもありうることです。
しかし、このニコデモのように、真理に根ざした考えを持っている人もいます。
彼はイエス様のもとに行って、教えを乞い、真摯に求道していたのです。
恐れずに大胆に真理を語るべきです。
誰が信じるかは主の主権にゆだねましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月25日
2025/1/25早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書7:25-36です。
本文とメッセージはこちら
イエス様が貧しい生い立ちであることで、人々は信じようとはしませんでした。
まさにうわべを見ており、また人の基準でしか人を見ることのできない人々です。
イエス様はご自分が神様から遣わされたものであることを、公言しましたが、それは冒涜にあたるとして、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしました。
そうでない人々もイエス様が離散しているユダヤ人を教えに行くだろうという的外れなことを考えていました。
このように多くの人々がいて多くの考えがありましたが、聖霊によって教えられた人だけが、イエスを主と告白することができたのです。
私たちが信仰に至ったのも決して自分自身の知恵ではないことを再認識して、心から感謝しましょう。
祝福を祈ります。
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イエス様が貧しい生い立ちであることで、人々は信じようとはしませんでした。
まさにうわべを見ており、また人の基準でしか人を見ることのできない人々です。
イエス様はご自分が神様から遣わされたものであることを、公言しましたが、それは冒涜にあたるとして、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしました。
そうでない人々もイエス様が離散しているユダヤ人を教えに行くだろうという的外れなことを考えていました。
このように多くの人々がいて多くの考えがありましたが、聖霊によって教えられた人だけが、イエスを主と告白することができたのです。
私たちが信仰に至ったのも決して自分自身の知恵ではないことを再認識して、心から感謝しましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月24日
2025/1/24早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書7:14-24です。
本文とメッセージはこちら
正しく生きる者への批判は、逆に正当性を表す結果になるものです。
ここでは「この人は…どうして学問があるのか」(15)という驚きまでもが、主イエスを「殺そうとする」(19)批判に繋がってしまいます。
イエス様はそこでご自分の正当性を明らかにします。
批判と擁護の問題は多くの場合、判断基準から食い違っていることが多いものです。
クリスチャン同士でも、優先順位や人と神の価値観で食い違ったままという場合もあり得るものです。
イエス様の正当性を示す判断基準は、「教えは…わたしを遣わした方のもの」(16)であるということです。
また「自分を遣わされた方の栄誉を求め」(18)ているということです。
つまり父なる神様のみこころに生きているということです。
それは「うわべ」(24)の律法を守っている姿勢よりも、確かなものであり、本人を保証するものです。
自分も含めて人の評価は、それだけ「神のみこころを行おうと」(17)願うかであり、そして行っているかです。
その点を大切な価値観としましょう。
祝福を祈ります。
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正しく生きる者への批判は、逆に正当性を表す結果になるものです。
ここでは「この人は…どうして学問があるのか」(15)という驚きまでもが、主イエスを「殺そうとする」(19)批判に繋がってしまいます。
イエス様はそこでご自分の正当性を明らかにします。
批判と擁護の問題は多くの場合、判断基準から食い違っていることが多いものです。
クリスチャン同士でも、優先順位や人と神の価値観で食い違ったままという場合もあり得るものです。
イエス様の正当性を示す判断基準は、「教えは…わたしを遣わした方のもの」(16)であるということです。
また「自分を遣わされた方の栄誉を求め」(18)ているということです。
つまり父なる神様のみこころに生きているということです。
それは「うわべ」(24)の律法を守っている姿勢よりも、確かなものであり、本人を保証するものです。
自分も含めて人の評価は、それだけ「神のみこころを行おうと」(17)願うかであり、そして行っているかです。
その点を大切な価値観としましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月23日
2025/1/23早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書7:1-13です。
本文とメッセージはこちら
前章には「弟子たちのうちの多くの者が離れ去り」(6:66)とあります。
イエス様にとっては、人間的に見れば失意の時であり、慰めや励ましが必要な時でもあります。
イエス様の肉の兄弟たちはそのような兄イエスを見て、きっとやさしい気持ちからでしょう…希望につながるようなアドバイスをしました。
イエス様の奇跡のわざを見て、それを多くの人の前で行うなら、兄は世の成功者になれると考えたのです。
私たちも同じように、人情からありがたい助言をもらうことがあります。
家族であったり、友人であったり、先輩であったりするでしょう。
気持ちを考えると否定もできないものです。
しかしここでは「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(5)と書いています。
信仰から出ていなかったのです。
またイエス様の救いの大使命を単なる個人の成功のレベルでしか捕えていなかったのです。
私たちは個人の成功を求めていけないのではありません。
しかしそれよりももっと大きな価値と、それを実現するための使命があるのです。
人情はありがたいですが、それに左右されるなら大切なものを失う場合が少なくありません。
イエス様に対する兄弟のアドバイスは、イエス様の命を危険にさらすことになります。
また全人類の救いという絶大なる成功を損なうタイミングだったのです。
「わたしの時はまだ来ていません。」(6)と言うとおりです。
人よりも神様のみこころを優先できる人になりましょう。
祝福を祈ります。
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前章には「弟子たちのうちの多くの者が離れ去り」(6:66)とあります。
イエス様にとっては、人間的に見れば失意の時であり、慰めや励ましが必要な時でもあります。
イエス様の肉の兄弟たちはそのような兄イエスを見て、きっとやさしい気持ちからでしょう…希望につながるようなアドバイスをしました。
イエス様の奇跡のわざを見て、それを多くの人の前で行うなら、兄は世の成功者になれると考えたのです。
私たちも同じように、人情からありがたい助言をもらうことがあります。
家族であったり、友人であったり、先輩であったりするでしょう。
気持ちを考えると否定もできないものです。
しかしここでは「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(5)と書いています。
信仰から出ていなかったのです。
またイエス様の救いの大使命を単なる個人の成功のレベルでしか捕えていなかったのです。
私たちは個人の成功を求めていけないのではありません。
しかしそれよりももっと大きな価値と、それを実現するための使命があるのです。
人情はありがたいですが、それに左右されるなら大切なものを失う場合が少なくありません。
イエス様に対する兄弟のアドバイスは、イエス様の命を危険にさらすことになります。
また全人類の救いという絶大なる成功を損なうタイミングだったのです。
「わたしの時はまだ来ていません。」(6)と言うとおりです。
人よりも神様のみこころを優先できる人になりましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月22日
2025/1/22早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書6:60-71です。
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ここでの弟子とは、単にイエスという先生の教えを求めていたくらいの人々でしょう。
現代の教会においても、熱心だけれども信仰はあやしいという人もいますから、注意が必要です。
自分の価値観に合っていると思えるうちは喜んで、集会や交わりにも参加しますが、何か合わないものがあると去ってしまいます。
何よりも大切なのは、その人がイエスを師としてではなく、主として全面的に信じて従っているかです。
その基本が何よりも十字架なのです。
「いのちを与えるのは御霊です。」(63)と主イエスが言われるように、十字架は御霊によってしか信じ受け入れることができません。
ですから御霊によって信仰に至ることができたのは、ただ主の恵みであり、イエス様が「わたしがあなたがた12人を選んだのではありませんか。」(70)と言われるのです。
信じていのちを与えられた私たちは、全能の神から選ばれた者です。
また十二弟子のように尊い使命が地上において与えられてているのです。
感謝と誇りと自信をもちつつ、謙遜に使命を果たして生きましょう。
祝福を祈ります。
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ここでの弟子とは、単にイエスという先生の教えを求めていたくらいの人々でしょう。
現代の教会においても、熱心だけれども信仰はあやしいという人もいますから、注意が必要です。
自分の価値観に合っていると思えるうちは喜んで、集会や交わりにも参加しますが、何か合わないものがあると去ってしまいます。
何よりも大切なのは、その人がイエスを師としてではなく、主として全面的に信じて従っているかです。
その基本が何よりも十字架なのです。
「いのちを与えるのは御霊です。」(63)と主イエスが言われるように、十字架は御霊によってしか信じ受け入れることができません。
ですから御霊によって信仰に至ることができたのは、ただ主の恵みであり、イエス様が「わたしがあなたがた12人を選んだのではありませんか。」(70)と言われるのです。
信じていのちを与えられた私たちは、全能の神から選ばれた者です。
また十二弟子のように尊い使命が地上において与えられてているのです。
感謝と誇りと自信をもちつつ、謙遜に使命を果たして生きましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月21日
2025/1/21早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書6:41-59です。
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パンとは人にとっては、生きるための糧であり、労働の目的です。
世の人はそれさえあれば安心と思い、それが最優先課題であると信じ込んでいます。
しかしイエス様はそれ以上に大切なものがあると教えられます。
それは永遠に変わることのない「天」(41)であり、この世の事象を支配する天の父のみこころです。
ですから「天から下って来た」(41)イエス様こそが、何よりも大切な方であり、肉体の命ではなく永遠の命のための「パン」(41)なのです。
イエス様は十字架でその「肉」(51)を裂いて「与え」(51)てくださって、「生けるパン」(51)となってくださいました。
そこまでして与えてくださった永遠の命であり、また真理ですから、私たちはこれを最優先課題にして、そのためにこそ生きてゆきましょう。
「肉を食べ、その血を飲」(53)むとは、イエス様の尊い犠牲を受け入れるということです。
まるで人肉を食べるかのような、生々しい表現がなされています。
しかしイエス様の十字架はまさに生々しいものです。
そして痛み苦しみによって、命が与えられているのですから、外れた表現ではないのです。
むしろそれほどの犠牲によって、私たちは生かされているのだということを感じる必要があるからこそ、聖書にそのことばがあるのです。
イエス様にそれほどの苦しみを負わせた私たちなのですから、いまさら自分を取り繕う必要はありません。
いまさらイエス様に負担をかけないような生き方ができるなどと、幻想を抱く必要もありません。
それをイエス様も求めてはおられません。
ただ「わたしを食べる者」(57)が「わたしによって生きる」(57)という、いのちの関係を願っておられるのです。
イエス様の「肉を食べ」(54)「血を飲む」(54)私たちは、「永遠のいのちを持って」(54)いること、「終わりの日に」「よみがえらせ」(54)ていただけることを、当たり前のように確信して、イエス様の愛のうちに日々、瞬間瞬間「とどまり」(56)続けましょう。
祝福を祈ります。
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パンとは人にとっては、生きるための糧であり、労働の目的です。
世の人はそれさえあれば安心と思い、それが最優先課題であると信じ込んでいます。
しかしイエス様はそれ以上に大切なものがあると教えられます。
それは永遠に変わることのない「天」(41)であり、この世の事象を支配する天の父のみこころです。
ですから「天から下って来た」(41)イエス様こそが、何よりも大切な方であり、肉体の命ではなく永遠の命のための「パン」(41)なのです。
イエス様は十字架でその「肉」(51)を裂いて「与え」(51)てくださって、「生けるパン」(51)となってくださいました。
そこまでして与えてくださった永遠の命であり、また真理ですから、私たちはこれを最優先課題にして、そのためにこそ生きてゆきましょう。
「肉を食べ、その血を飲」(53)むとは、イエス様の尊い犠牲を受け入れるということです。
まるで人肉を食べるかのような、生々しい表現がなされています。
しかしイエス様の十字架はまさに生々しいものです。
そして痛み苦しみによって、命が与えられているのですから、外れた表現ではないのです。
むしろそれほどの犠牲によって、私たちは生かされているのだということを感じる必要があるからこそ、聖書にそのことばがあるのです。
イエス様にそれほどの苦しみを負わせた私たちなのですから、いまさら自分を取り繕う必要はありません。
いまさらイエス様に負担をかけないような生き方ができるなどと、幻想を抱く必要もありません。
それをイエス様も求めてはおられません。
ただ「わたしを食べる者」(57)が「わたしによって生きる」(57)という、いのちの関係を願っておられるのです。
イエス様の「肉を食べ」(54)「血を飲む」(54)私たちは、「永遠のいのちを持って」(54)いること、「終わりの日に」「よみがえらせ」(54)ていただけることを、当たり前のように確信して、イエス様の愛のうちに日々、瞬間瞬間「とどまり」(56)続けましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月20日
2025/1/20早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書6:22-40です。
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群衆は熱心にイエス様を追い求めました。
しかしそれは「パンを食べて満腹した」(26)という御利益があったからです。
イエス様は「なくなってしまう食べ物のためではなく」(27)と言われます。
神様のみわざであったとしても、御利益で求めたものはなくなってしまうのです。
主は与えてくださいますが、それは「永遠のいのちに至る」(27)ものを与えたいからです。
それはイエス様への信仰です。
それを求めて受けましょう。
イエス様を信じるというのは群衆のような信じ方ではなく、何かをもらえるというのではありません。
イエス様が救い主であり、聖め主であり、癒し主であり、全能の従うべき王であることを信じるということです。
イエス様はそれを求めておいでなのです。
それは信じる者の勝利と祝福になるからです。
群衆はしるしを、すなわち奇跡を求めました。
しかしイエス様はしるしではなく、ご自身を示されて、「わたしがいのちのパンです。」(35)と明言なさいました。
しるしを求める者よりも、イエス様ご自身を理解して求め、そして受け入れる者を願っておられるのです。
自分の欲しいものを求めることは悪ではありません。
しかし与えられた、答えられたという満足で終わらずに、主のみこころを求めて従えたことに満足しましょう。
永遠のいのちとそれを伝えることが「父のみこころ」(40)ですから、そのことを続けていきましょう。
祝福を祈ります。
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群衆は熱心にイエス様を追い求めました。
しかしそれは「パンを食べて満腹した」(26)という御利益があったからです。
イエス様は「なくなってしまう食べ物のためではなく」(27)と言われます。
神様のみわざであったとしても、御利益で求めたものはなくなってしまうのです。
主は与えてくださいますが、それは「永遠のいのちに至る」(27)ものを与えたいからです。
それはイエス様への信仰です。
それを求めて受けましょう。
イエス様を信じるというのは群衆のような信じ方ではなく、何かをもらえるというのではありません。
イエス様が救い主であり、聖め主であり、癒し主であり、全能の従うべき王であることを信じるということです。
イエス様はそれを求めておいでなのです。
それは信じる者の勝利と祝福になるからです。
群衆はしるしを、すなわち奇跡を求めました。
しかしイエス様はしるしではなく、ご自身を示されて、「わたしがいのちのパンです。」(35)と明言なさいました。
しるしを求める者よりも、イエス様ご自身を理解して求め、そして受け入れる者を願っておられるのです。
自分の欲しいものを求めることは悪ではありません。
しかし与えられた、答えられたという満足で終わらずに、主のみこころを求めて従えたことに満足しましょう。
永遠のいのちとそれを伝えることが「父のみこころ」(40)ですから、そのことを続けていきましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月19日
2025/1/19主日礼拝
1月19日の放送です。
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2025年1月19日NGC SundayCelebration (RAM)
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賛美「鹿のように」
------------------------------------------------------------
前奏
招詞
礼拝祈祷
賛美「栄光の王」
お知らせと報告など
賛美「Come今主をあがめ」
「雨を注いで」
「主イエスの十字架の血で」
司会
使徒信条
主の祈り
祈祷
聖書 マタイによる福音書20章1〜16節
メッセージ「恵みとあわれみに立つ国」
祈り・応答
賛美「主は良いお方」(献金)
「主のもとへと走り出そう」
頌栄「父・御子・御霊の」新聖歌63番
祝祷
後奏
------------------------------------------------------------
司会:竹内清兄
説教:山下義道先生(一麦ゴスペルチャーチ牧師)
Praise & Worship
WL:Yama
Cho:岡本伸之牧師&Yoshika
Key:Yokoi
G:岡本伸之牧師
Dr:Yoshika
PA:DJshuntaro
YouTube&Camera:Nobumasa
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2025年1月19日NGC SundayCelebration (YouTube)
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2025年1月19日NGC SundayCelebration (RAM)
出席票の記入にご協力をお願いします。
賛美「鹿のように」
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前奏
招詞
礼拝祈祷
賛美「栄光の王」
お知らせと報告など
賛美「Come今主をあがめ」
「雨を注いで」
「主イエスの十字架の血で」
司会
使徒信条
主の祈り
祈祷
聖書 マタイによる福音書20章1〜16節
メッセージ「恵みとあわれみに立つ国」
祈り・応答
賛美「主は良いお方」(献金)
「主のもとへと走り出そう」
頌栄「父・御子・御霊の」新聖歌63番
祝祷
後奏
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司会:竹内清兄
説教:山下義道先生(一麦ゴスペルチャーチ牧師)
Praise & Worship
WL:Yama
Cho:岡本伸之牧師&Yoshika
Key:Yokoi
G:岡本伸之牧師
Dr:Yoshika
PA:DJshuntaro
YouTube&Camera:Nobumasa
2025/1/19早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書6:1-21です。
本文とメッセージはこちら
いやしなどのみわざを期待してイエス様のもとに来る人は大勢いました。
しかし、イエス様の目的は彼らに、ご自身が天からのパンであることを知らしめることです。
今日もみわざを期待して教会に来る人や、希望が叶ったと喜ぶ人がいますが、それだけでは悪霊の神々とさほど変わりません。
それらを通して、主のみこころが分かる必要があるのです。
イエスは「ピリポを試すため」(6)に、彼に質問しました。
それはピリポなど弟子たちがイエス様のみわざについて、よく考えるようになるためです。
今日も主は私たちを試すことがありますが、それは教育的な配慮です。
迷うときや悩むときは、イエス様が愛を持って、良い体験をさせようとしてくださっているのだと知りましょう。
そして、しっかりと祈りと聖書からのみことばを通して神様の答えをいただきましょう。
また、しるしを見て信じた人々は、結局自分たちのことしか考えていませんでした。
主のみこころが何であるかではなく、勝手に王を立ててこの世的な変革を望んだのです。
「この方こそ...預言者だ」(14)というのは一見信仰のことばのようですが、実は神ではなく人間の考えを信じているのに過ぎないのです。
神様の御心やご計画よりも自分の願望が先走っていないか考えてみましょう。
今日でも奇跡などのしるしを求めるクリスチャンも少なくありません。
しるしはイエス様を証言している聖書によって裏付けられます。
また聖書によって主のみこころがわかってこそ、意味があるのです。
弟子たちはイエス様を見たのに、恐れてしまいました。
主イエスをいつも見て、いつも共に歩んでいないと、せっかくの愛の主が恐い存在に感じてしまうこともあるのです。
しかし主は「恐れることはない」(20)と言ってくださいますから、そのことばをいつも聞くようにしましょう。
そして安心して主のもとに近づき、祈り、従って行きましょう。
祝福を祈ります。
本文とメッセージはこちら
いやしなどのみわざを期待してイエス様のもとに来る人は大勢いました。
しかし、イエス様の目的は彼らに、ご自身が天からのパンであることを知らしめることです。
今日もみわざを期待して教会に来る人や、希望が叶ったと喜ぶ人がいますが、それだけでは悪霊の神々とさほど変わりません。
それらを通して、主のみこころが分かる必要があるのです。
イエスは「ピリポを試すため」(6)に、彼に質問しました。
それはピリポなど弟子たちがイエス様のみわざについて、よく考えるようになるためです。
今日も主は私たちを試すことがありますが、それは教育的な配慮です。
迷うときや悩むときは、イエス様が愛を持って、良い体験をさせようとしてくださっているのだと知りましょう。
そして、しっかりと祈りと聖書からのみことばを通して神様の答えをいただきましょう。
また、しるしを見て信じた人々は、結局自分たちのことしか考えていませんでした。
主のみこころが何であるかではなく、勝手に王を立ててこの世的な変革を望んだのです。
「この方こそ...預言者だ」(14)というのは一見信仰のことばのようですが、実は神ではなく人間の考えを信じているのに過ぎないのです。
神様の御心やご計画よりも自分の願望が先走っていないか考えてみましょう。
今日でも奇跡などのしるしを求めるクリスチャンも少なくありません。
しるしはイエス様を証言している聖書によって裏付けられます。
また聖書によって主のみこころがわかってこそ、意味があるのです。
弟子たちはイエス様を見たのに、恐れてしまいました。
主イエスをいつも見て、いつも共に歩んでいないと、せっかくの愛の主が恐い存在に感じてしまうこともあるのです。
しかし主は「恐れることはない」(20)と言ってくださいますから、そのことばをいつも聞くようにしましょう。
そして安心して主のもとに近づき、祈り、従って行きましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月18日
2025/1/18早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書5:39-47です。
本文とメッセージはこちら
聖書はイエス様について「証ししている」(39)と、イエス様ご自身が明言なさいます。
聖書は堅苦しい学びだけの本ではありません。
また人の思いを遠ざけるような心の通わない信条や戒律の本でもありません。
何よりもイエス様を表す唯一の神のみことばなのです。
そしてイエス様は愛のお方であり、その愛を伝えるのが聖書なのです。
ですから、聖書を愛する人はイエス様を愛し、イエス様を愛する人は聖書を愛します。
イエス様に信頼する人はイエス様に従い、聖書に従うのです。
聖書を読むときは、イエス様の「もとに」(40)行こうと思いつつ読みましょう。
モーセは旧約の聖徒ですが、そのモーセに与えられた律法の成就者がイエス様です。
神様のみこころは旧約も新約も首尾一貫しているのです。
そのような全能の主に信頼して、従いましょう。
またその主から与えられた人生を肯定的に生き抜きましょう。
祝福を祈ります。
本文とメッセージはこちら
聖書はイエス様について「証ししている」(39)と、イエス様ご自身が明言なさいます。
聖書は堅苦しい学びだけの本ではありません。
また人の思いを遠ざけるような心の通わない信条や戒律の本でもありません。
何よりもイエス様を表す唯一の神のみことばなのです。
そしてイエス様は愛のお方であり、その愛を伝えるのが聖書なのです。
ですから、聖書を愛する人はイエス様を愛し、イエス様を愛する人は聖書を愛します。
イエス様に信頼する人はイエス様に従い、聖書に従うのです。
聖書を読むときは、イエス様の「もとに」(40)行こうと思いつつ読みましょう。
モーセは旧約の聖徒ですが、そのモーセに与えられた律法の成就者がイエス様です。
神様のみこころは旧約も新約も首尾一貫しているのです。
そのような全能の主に信頼して、従いましょう。
またその主から与えられた人生を肯定的に生き抜きましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月17日
2025/1/17早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書5:30-38です。
本文とメッセージはこちら
イエス様がキリストすなわち救い主であることは、ヨハネの証し、イエス様のみわざの証し、そして御父の証しがあります。
イエス様は客観的に検証可能な方でもあるのです。
私たちはイエス様が遠く感じられることもありますが、そのようなときは、ヨハネのような信仰の人の証しを聞いたり、聖書からイエス様のすばらしいみわざに心を留めたりすることは大いに力になります。
また直接御父に祈ることでも、聖霊が働いてくださりイエス様と近くなることができます。
様々なことによって主と交わることができますから、それらを楽しみつつ実践しましょう。
祝福を祈ります。
本文とメッセージはこちら
イエス様がキリストすなわち救い主であることは、ヨハネの証し、イエス様のみわざの証し、そして御父の証しがあります。
イエス様は客観的に検証可能な方でもあるのです。
私たちはイエス様が遠く感じられることもありますが、そのようなときは、ヨハネのような信仰の人の証しを聞いたり、聖書からイエス様のすばらしいみわざに心を留めたりすることは大いに力になります。
また直接御父に祈ることでも、聖霊が働いてくださりイエス様と近くなることができます。
様々なことによって主と交わることができますから、それらを楽しみつつ実践しましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月16日
2025/1/16早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書5:19-29です。
本文とメッセージはこちら
ここに御子イエスと御父との一体か表されています。
その一体は愛と信頼の関係であることが分かります。
最も権威のある神そのものである方が、御父に対して「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。」(19)と、全くの服従と謙遜を貫かれます。
ここに権威があるのです。
神を知らない人々の権威は、自分の思い通りにできる力と考えます。
しかし、本当の権威とはイエス様のように神に服従することなのだと知りましょう。
私たちはその点で思い違いをしてはいないでしょうか。
仕事において、子育てにおいて、友人関係において考えてみましょう。
祝福を祈ります。
本文とメッセージはこちら
ここに御子イエスと御父との一体か表されています。
その一体は愛と信頼の関係であることが分かります。
最も権威のある神そのものである方が、御父に対して「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。」(19)と、全くの服従と謙遜を貫かれます。
ここに権威があるのです。
神を知らない人々の権威は、自分の思い通りにできる力と考えます。
しかし、本当の権威とはイエス様のように神に服従することなのだと知りましょう。
私たちはその点で思い違いをしてはいないでしょうか。
仕事において、子育てにおいて、友人関係において考えてみましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月15日
2025/1/15早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書5:1-18です。
本文とメッセージはこちら
この足なえの人は、池に自分を入れてくれる人を願っていました。
それは、池の水が動いた時に最初に入った人が癒やされるという言い伝えを信じてのことでした。
それは誰が言い広めたのかは分かりませんが、それを期待して、人々が池の周りに待機していたのでした。
しかし足が悪いこの人には希望がありませんでした。
他の人に遅れを取るからです。
このように人間が作り出した条件を満たせずに、悩み続ける人はいるものです。
しかし、本当に必要なものは違います。
イエス様はそれを見抜いておられました。
彼に必要なのは池ではなく、まして彼を「入れてくれる人」(7)でもありません。
「床を取り上げ、歩」(8)くことです。
私たちは回りに影響されて、本当に必要ではないものを求め続けて希望をなくしているかもしれません。
もう一度、神様から問いかけていただきましょう。
そして神様から本質的な解決をいただきましょう。
それは何でしょうか。
教えていただきましょう。
安息日の規定は神様から与えられたものです。
しかしユダヤ人たちは、神様よりも規定の方に固執していました。
安息日は神様を第一にするためのものなのに、全く本末転倒なことをしてしまったのです。
それだけでなく、安息日を守らないということで、神様ご自身である主イエスまでも迫害しました。
私たちもここは警戒しなくてはならないところです。
神様の御心よりも、規定や権威を守ろうとするなら、このユダヤ人たちと一緒です。
誰かとの関係で、自分が正しいはずと思っていることがあるなら、もう一度主の御心は何なのかを祈って聞いてみましょう。
また主イエスをどんな規定よりも尊い方としてあがめましょう。
祝福を祈ります。
本文とメッセージはこちら
この足なえの人は、池に自分を入れてくれる人を願っていました。
それは、池の水が動いた時に最初に入った人が癒やされるという言い伝えを信じてのことでした。
それは誰が言い広めたのかは分かりませんが、それを期待して、人々が池の周りに待機していたのでした。
しかし足が悪いこの人には希望がありませんでした。
他の人に遅れを取るからです。
このように人間が作り出した条件を満たせずに、悩み続ける人はいるものです。
しかし、本当に必要なものは違います。
イエス様はそれを見抜いておられました。
彼に必要なのは池ではなく、まして彼を「入れてくれる人」(7)でもありません。
「床を取り上げ、歩」(8)くことです。
私たちは回りに影響されて、本当に必要ではないものを求め続けて希望をなくしているかもしれません。
もう一度、神様から問いかけていただきましょう。
そして神様から本質的な解決をいただきましょう。
それは何でしょうか。
教えていただきましょう。
安息日の規定は神様から与えられたものです。
しかしユダヤ人たちは、神様よりも規定の方に固執していました。
安息日は神様を第一にするためのものなのに、全く本末転倒なことをしてしまったのです。
それだけでなく、安息日を守らないということで、神様ご自身である主イエスまでも迫害しました。
私たちもここは警戒しなくてはならないところです。
神様の御心よりも、規定や権威を守ろうとするなら、このユダヤ人たちと一緒です。
誰かとの関係で、自分が正しいはずと思っていることがあるなら、もう一度主の御心は何なのかを祈って聞いてみましょう。
また主イエスをどんな規定よりも尊い方としてあがめましょう。
祝福を祈ります。
2025年01月14日
2025/1/14早天メッセージ
本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書4:43-54です。
本文とメッセージはこちら
ガリラヤの人々はイエス様のみわざを見て信じましたが、この王室の役人は「あなたの息子は治ります。」(50)とのことばを信じました。
ここに神様を信じる信仰の姿勢があります。
私たちに求められているのは、確認ではなくて信仰です。
見て受け入れるのは確認ですが、見ないで信じるのは信仰です。
人はその人の言うことを信用できないときに、証拠を求めるのです。
イエス様という方を信用しましょう。
そして主のみわざを見ましょう。
息子が治ったのが、この役人に声をかけられたとき、すなわちこの役人が信じた時であることを心に留めましょう。
イエス様を信じようという決心のあるそのときに、主にみわざが始まるのです。
祝福を祈ります。
本文とメッセージはこちら
ガリラヤの人々はイエス様のみわざを見て信じましたが、この王室の役人は「あなたの息子は治ります。」(50)とのことばを信じました。
ここに神様を信じる信仰の姿勢があります。
私たちに求められているのは、確認ではなくて信仰です。
見て受け入れるのは確認ですが、見ないで信じるのは信仰です。
人はその人の言うことを信用できないときに、証拠を求めるのです。
イエス様という方を信用しましょう。
そして主のみわざを見ましょう。
息子が治ったのが、この役人に声をかけられたとき、すなわちこの役人が信じた時であることを心に留めましょう。
イエス様を信じようという決心のあるそのときに、主にみわざが始まるのです。
祝福を祈ります。