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「主が残しておかれた異邦の民」(1)とありますが、もともとはイスラエルが主に背いて共存を選んだものです。
主はそれを直接の介入で絶つことをせずに、イスラエルを試みるために「残しておかれた」わけです。
このように誘惑や罪は私たち人間に非がありますが、主がそれさえも主権のもとに置かれるのです。
人間が「神によって誘惑された、苦しめられた」などと言ってはならないのはそのためです。
なぜイスラエルは異教の民と同化したのでしょうか。
それはかつて、先祖のヤコブやユダがそうであったように、安全と打算のゆえです。
主により頼み期待するよりも、人間に求め、さらには信仰までも歪めてしまったのです。
次第に霊的に無感覚になってしまい、「バアルやアシェラに仕え」(7)るようにさえなってしまいました。
イスラエルは他民族に助けられると思っていましたが、結局別の民族であるアラム・ナハライムの王によって攻められ、そして屈したのです。
異教は何の助けにはなりませんでした。
使徒行伝2:47には「民全体から好意を持たれていた」とありますが、それとはまったく違うものです。
初代教会のクリスチャンたちは福音宣教のためにしたのであって、打算からではありませんでした。
むしろ主のためなら命も財産もささげる覚悟ができていたのです。
主は常に私たちを「試みて」おられますが、それは怖いものではありません。
試みつつ、みことばによって教えてくださり、愛を持って正してくださるのです。
主との交わりがいかに大切かに気づかされます。
祝福を祈ります。
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