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律法は神様の義を表すもので、それ自体は良いものです。
しかし律法を守り通すことはできないので、律法によって救われる人は1人もなく、誰であっても律法の前には不完全な自分を嘆くことになるはずです。
しかし当時の宗教の専門家、すなわち律法学者やパリサイ人、そしてこの会堂管理者もそれでは立場が守られないので、外面的や形式的に律法を守り、権威を保っていました。
「安息日にはいけない。」(14)というのもその表れです。
ところでイエス様が悪霊追い出しや癒しのわざをなさった目的は、旧約に預言されたわざを行うことによって御自身が救い主であることを明らかにするためでした。
つまり救いのわざであり、解放のわざです。
ここに律法による救いと、恵みによる救いの違いがあります。
前者は不可能であり形式だけになります。
後者は唯一の救いの道であり、形式ではなく愛によるわざです。
「反対していた者たちはみな恥じ入り、群衆はみな、…喜んだ。」(17)とあるのは、この愛のわざのすばらしさに気づいたからでしょう。
私たちも律法主義、すなわち形式的、外面的な保身に陥っていないか省みる必要があります。
恵みに感じて、また応答して神様と交わって歩んでいるか、心を探ってみる必要があります。
それには立派なまたは偉大な信仰者になる必要は必ずしもありません。
神の国、すなわち神の支配は私たちにいのちを与えますから、そのいのちが生きている以上、成長するのです。
からし種のように小さくても、聖霊のいのちをいただいていれば必ず大きくなるのです。
成長するものでありましょう。
祝福を祈ります。
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