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恐ろしい十字架刑ではありますが、聖書ではそれを簡潔に記述しています。
特にマルコは記述が短いのですが、これには神様の御思いがあるのでしょう。
その残酷さや悲しさを単に感情的に伝えるのではなく、主のなさったみわざを伝え、それを読む私たちが聖霊の働きによって、理解し感じることが主の意図されたことではないでしょうか。
少なくとも聖霊によらなければ、これは単なる単純な記録です。
また聖霊によって読むなら、主イエスの激痛を感じ、叫び声が聞こえてくるのです。
主イエスを愛し、その御思いに少しでも近づきたいという思いでこの箇所を読みましょう。
そしてその一つ一つの苦しみが、自分自身のためであったことを覚えましょう。
「紫の衣」(17)は高貴な人が着るものでしたが、ここでは明らかにイエス様をからかい馬鹿にしたものです。
王と自称してもこの有様だと言わんばかりです。
その極めつけとして、高貴な人が被る王冠を、事もあろうにいばらで編んで、これを頭に食い込ませました。
数センチもある長い棘は頭全体からこめかみまで食い込みました。
その顔は血だらけになったでしょう。
そのような中でクレネ人、シモンはイエス様をお助けすることができました。
はじめは「無理やり」(21)に背負わされたのですが、最後の十字架のところまで負い続けたのです。
これも御父なる神様の導きであると考えられます。
私たちもたとえ不本意な中で背負わされた重荷であっても、主イエスの役に立てるなら…と思いを新たにし、十字架を負い直してみましょう。
必ず新しい喜びが生まれるはずです。
「没薬を混ぜたぶどう酒」(23)は十字架の苦しみを少しでも和らげるために与えられたものですが、イエス様はそれを拒否なさいました。
苦しみを余すところなく受けるためです。
イエス様はそれほどの覚悟を持って私たちを救ってくださったのです。
どんな時でもどんなことでも、イエス様は愛を差し控えるような方ではありません。
私たちは自分が主イエス様の無限の愛に包まれていることを、常に感じて生きるのです。
祝福を祈ります。
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