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この記事は歴代誌下32:25-26の部分に相当します。
「ところがヒゼキヤは、自分に与えられた恵みに応えようとせず、かえってその心を高ぶらせたので、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。しかし、ヒゼキヤがその心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼もエルサレムの住民もそうしたので、主の御怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」
彼は自分の回復祝いに遠国から使者が来たことを喜び、自慢したくなったのでしょう。
自分にあるものはすべて主のものなのに、「高ぶり」によって披露したのでした。
主のものなのに自分で得たかのようにするのは、嘘であり、主を軽んじることです。
私たちも気をつけなければなりません。
「自分が生きている間は、平和で安定があるのではないか」というのは、上の32:26に相当します。
彼は自分さえよければ死後はどうでも良いと思ったのではなく、「心の高ぶりを捨ててへりくだり」、主がしばらくの間は平和と安全を与えてくださるという、あわれみに感謝したようです。
(原文には「思った」とだけ記されていて、「からである」という表現はありません)
ヒゼキヤのように良い信仰で主に従っていれば祝福がありますが、それも主からのものであって自分の力ではないのですから、私たちはいつも謙遜に主の恵みを証ししましょう。
祝福を祈ります。
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