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神様は律法による救いを明言しながら、しかしキリストによる救いを与えられました。
そこで「律法は神の約束に反するのでしょうか。」(21)という問いかけがなされますが、「そんなことはありません。」(21)とパウロは言います。
なぜなら人は律法を守りきることができないので、救われることがないから、神様はキリストによる救いを与えてくださったのです。
そこで、では律法とは何のためにあったのかという問いが生まれますが、パウロはそれは「私たちをキリストへ導く」(24)ためであったと言います。
つまり律法があることによって、神の義を知り、その義を全うできない自分の弱さや罪深さを自覚するということです。
ですから律法的に生きてしまう弱さを私たちは持っていますが、それによって自分の弱さを自覚して、そこからイエス様の十字架の愛と聖霊の力に立ち返るべきです。
そのように十字架のあわれみで生きることが、自分を誇らないで、互いに「一つ」(28)となれる道なのです。
クリスチャンの群れはそのように、十字架のもとで謙遜になる人々によって成り立っているものです。
祝福を祈ります。
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