2025年03月23日

2025/3/23早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、民数記4:1-20です。

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戦力を数えたのが民数記ではありますが、神への奉仕・礼拝をおろそかにしては勝利はありません。
この箇所の規定は、目に見える戦果を求めてのものではないので、守るには霊的理解力と従順が必要でした。
それで30歳以上の成熟が必要だったのです。

ケハテ族が携わったものは全て神様の御性質と救いを表すものですから、それらを扱う奉仕は重要で、まさに献身と従順が必要でした。
また高度な役割分担と、自分の役割への分担が必要であり、「死ぬことのないようにするため」(15,20)と言われているように、自らの分を超えない謙遜さが必要でした。
教会や実生活でこれらの資質を身に着けましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月22日

2025/3/22早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、民数記3:40-51です。

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初子というのは、生まれた時点ではまだひとり子です。
つまりひとり子を差し出しなさいということですが、これは神のひとり子イエス様が、人間の救いのために差し出されたことと関係があります。
出エジプトでの子羊の犠牲も、またレビ人による「長子の代わり」(41)も、イエス様のひな型なのです。

ここで大切なことは、数をきっちりと合わせて代わりとしたことです。
イエス様の身代わりは、だいたいこれくらいの人数…として概数であがなったのでなく、1人1人がしっかりと把握されて、大切にされたということです。
また、そうであるなら、贖われる人と贖われない人というのは明確に区別されるということです。

すなわち救いには中間点はないのです。
愛する人の救いのために、アバウトな考えや適当な期待感ではなく、明確な危機感を持ちつつも主の憐みに期待しつつ、できる限りのことをしていきましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月21日

2025/3/21早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、民数記3:14-39です。

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イスラエル人はエジプトでは奴隷状態で、そのうえ初子は殺されていました。
そしてエジプトから脱出する際には、子羊の血によって助けられました。
つまりイスラエルにとって初子は、神様によって贖われたのであり、それは神のものということになります。(3章12節)

ここに贖われた者(救われた者)の使命があります。
私たちは小羊イエス様の血によって贖われたものです。
それは神を礼拝するために、また神の栄光を表すために奉仕するということです。

ここでは1か月以上の者が登録されたので、誰でも可能な奉仕ではありますが、神様の命令に従ってしなくてはなりません。
自覚しつつ主の栄光のために、与えられた役割を果たしましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月20日

2025/3/20早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、民数記3:1-13です。

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民数記においては戦いのための実践的備えが主要課題です。
しかし、だからといって主の命令や礼拝をおろそかにしてよいというのではありません。
私たちは時として、臨戦態勢すなわち危急のときは、礼拝など日常のことを後回しにしたり不十分でもしかたがないと思いがちです。
しかしそのようなときでも主との関係は最優先なのです。

ルターは忙しいときほど長く祈ったと伝えられています。
急がしいと目的を見失ったり、無駄なことをしてしまったり、動機がずれても気づかなかったりします。
現代人は自分は忙しいという言い訳がサタンに用いられているのです。
忙しい人は、それゆえに神のことばをシャットアウトしていないか、考えてみましょう。
また自分は臨戦態勢なのだというような緊張にある人も、それゆえに主をないがしろにしていないか、考えてみましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月19日

2025/3/19早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、民数記2:1-34です。

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秩序があることで一致があります。
それは主からの命令によります。
ですから、勝利や成功を求めるなら主に聞くことです。
それを分かち合いましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月18日

2025/3/18早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、民数記1:47-54です。

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レビ人も戦に出ることができるなら、もっと戦力は強められたでしょう。
しかし、主はその信仰を何よりも大切になさいます。
主を礼拝することをおろそかにするなら、動悸がずれてしまい、一致がなくなります。
どんなに人数が多くても弱体化してしまうのです。
それよりも戦う意味そのものがなくなってしまいます。

主との交わりがなく、みこころに従うこともなく努力する人生も、これと同じです。

主がレビ人とその礼拝の働きを不可侵としたように、私たちの礼拝とデボーションも不可侵としましょう。
「主が」「命じたとおりに」(54)行いましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月17日

2025/3/17早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、民数記1:20-46です。

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全てのクリスチャンは主に愛されていますし、等しく高価で尊い存在です。
しかし一方で、「戦に出ることができる」(20)人は全員ではありません。
その思いがあるか、覚悟があるか、主によって訓練をされているかが問われます。
現代においても戦に出ることができるように、つまり主に役に立つ者となりましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月16日

2025/3/16早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、民数記1:1-19です。

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民数記とは民の数、特に戦士の数を数えるということで、それは戦いのための備えです。
私たちもこの世というサタンの力が残る場所に生きていますから、敵対する力があるのです。
主の愛を全うするのは、厳しいのです。
その覚悟と備えも必要であることを覚えましょう。

またこの書のヘブル語の題名は、べ・ミドバールすなわち荒野にてという意味です。
その意味するところは、この世は荒野であって、約束の地に行くまでには信仰の戦いが必要であるということなのです。

私たちの人生は何事も、そしていつまでも安泰ということはありません。
優先順位をしっかりさせて、現実を直視し、決断して、主の恵みによって努力しましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月15日

2025/3/15早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書21:15-25です。

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主イエスは、かつて期待に応えられなかったペテロを、もう一度立ち上がらせてあげたいと、愛を持って取り扱われました。
主イエスが十字架にかかる前に3回も裏切ったことに対して、3回の質問をもって彼の愛を回復させ、それを認めてあげようとなさったのです。

しかも「わたしの子羊を飼いなさい」(15)と、最も重要な働きを託されたのです。
人を育てることは厳かな使命であることを知りましょう。

主は今後に起こるペテロの殉教を知っておられ、彼にその心構えを与えられました。
ペテロは他の人ことが気になったようですが、主は自分の十字架を負うことを求めておられます。
人との比較ではないのです。
働きは主からの使命そして、主の愛をもらいつつ、自分自身に固有に与えられた尊い働きとして行っていきましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月14日

2025/3/14早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書21:1-14です。

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イエス様の復活を経験した弟子たちでしたが、それだけでは何を目標に生きていったら良いのかわからなかったようです。
彼らは元の生活に戻るしかなく、ペテロが無気力に漁を始めようとすると、他の者たちもただそれに追随しました。
しかし何も獲れずに空しい結果でしかありませんでした。
そのときに主が訪れます。
主は必要を与え、働きに成功を与えてくださいます。
そしてその恵みが神である主ご自身から来ることを悟らせてくださるのです。
それは私たちにとっても同じです。
主の復活を受け入れるだけでなく、その主の思いと使命に生きることです。

さらに主は、ここにあるパンと魚のように、生きるための恵みをも用意してくださいます。
それは次節から記されているような、尊い使命へと召し出してくださるためです。 

恵みを受けつつ、使命へと導かれましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月13日

2025/3/13早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書20:24-31です。

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トマスは信仰の仲間と一緒に行動していませんでした。
また「主を見た」(25)という仲間の証言を聞いたにもかかわらず、それを信じませんでしたし、本当かどうか調べることもなかったのです。
ただ、自分は信じないと初めから決めていたようです。

もちろん何でもかんでも人の言うことを信じていたら、だまされることもありますし、周囲に流されるだけで、結果的には意見をころころ変えることになるでしょう。
信じるとは、主のみことばを信じるということです。
聖書のみことばによれば、主はよみがえるのであり、また主イエスご自身がよみかえりについて語っておられたのです。

また信じるとは信仰の証言を受け入れるということです。
クリスチャンは共に交わり、分かち合い祈りあうというすばらしい特権があります。
それには相手を尊重して受け入れるところから始まるのです。
しかしトマスは兄弟姉妹の証しを受け入れませんでした。

トマスは復活には懐疑的ではありましたが、反面的に簡単に信じ込んでいることがありました。
それは神でも死には勝てないということでした。
なので彼にとっては、復活を調べる必要もなかったのです。
彼は信じやすい性格だったのです。
そしてだまされ易い性格だったのです。
それはサタンにです。

自分はだまされないぞと、懐疑的であることが論理的であるかのように錯覚しがちですが、それは不信仰を信じ込んでいるだけなのです。
クリスチャンも同様で、神様のことばをもっと本気で信じるべきです。

この福音書も含めて「書かれたのは」(31)、「信じていのちを…得るため」(31)だからです。
聖書を本気で信じましょう。
適当に聞き流すことのないようにしましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月12日

2025/3/12早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書20:11-23です。

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マリアは泣いていました。
神である主イエスであっても死のままでは、それは悲しみ以外の何ものでもありません。
死の絶望の力はそれほどに大きいのです。

マリアにとっては、希望もなく、どうしたらいいか全くわからない状況でした。
心も弱くなって泣くしかなかったのです。
解決などありませんでした。
しかし、彼女はこのような状態の中でも、死んでしまった後でさえ、イエス様から離れなかったのです。
いや遺体がなかったのですから、離れまいとしたのです。
だからここで復活のイエス様にお会いすることができました。

彼女には何をも悟れるような状態ではありませんでしたが、イエスご自身が彼女に分かるように現れてくださいました。

何があってもイエス様から離れないようにしましょう。
たとえイエス様がもういないように感じるような絶望の中でも、イエス様を求めましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月11日

2025/3/11早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書20:1-10です。

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主イエスの復活の第一証言は、墓に行った人によるものです。
彼らはそのような重要な使命をいただいたのですが、実はまだ「イエスが死人の中からよみがえらなければならない」(9)ということを知らなかったとあります。
実際、聖書に書いてあるその預言と必然性を人類は誰もまだ理解していなかったのです。
それでも彼らが目撃者となり得たのは、彼らの信仰の在り方によります。

それは、まずイエスを愛して墓に行ったのです。
期待も希望も砕かれて意気消沈している中で、イエス様に従った過去の意味もなくなってしまいました。
それでも彼女たちはイエス様への愛を表したのです。
私たちも、目的や期待に増して、相手のことを純粋に愛しているかどうかが問われます。
また兄弟姉妹と行動を共にしたのです。
ペテロともうひとりの弟子(ヨハネ自身と考えれられます)は、マリアたちの話を聞いて遺体がないことを知って、墓へ急いだのです。
一緒に行動することはクリスチャンの力です。
共に体験し、共に感じ、共に働くことができるからです。

祝福を祈ります。
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2025年03月10日

2025/3/10早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書19:31-42です。

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安息日にはユダヤ教の規定があって、それに則って処刑が執行されました。
安息日には仕事をしてはならないので、十字架刑を続けるわけにはいかず、通常ですとまだ生きている受刑者の足を折って、肩と肺に負担をかけて呼吸困難で即死させました。
しかしイエス様の苦しみは通常よりも大きく、すでに死亡していたのです。

イエス様が墓から出たことは否定できないと判断した歴史家の中には、イエスは仮死状態だったのだとする者もありましたが、以上からイエス様は完全に死亡したのだとわかります。
イエス様は気を失った後に意識が戻ったのではなく、実際に死に、そしてその状態からよみがえったのです。

血と水は、医学的にはあり得ることで、相当の苦痛による心臓破裂ではないかと言われています。
ヨハネはそこに霊的な意味を見たのでしょう。
血は死の代価としてのあがないを意味し、水はきよめを表すのだとしたら、そのメッセージは、十字架から贖いときよめの恵みが流れ出るということです。
クリスチャンにとって恵みは十字架からなのです。
何かがあるごとに常に十字架を仰ぎましょう。

アリマタヤのヨセフは、イエス様を死罪に定めた議会においては、その一議員でもありました。
彼は「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」(38)のです。
議会は敵のようですが、その敵の一員と思われるような人々の中からも救いは起きるのです。
大きな励ましです。
また救われてまもなくは、彼のようにまだ周囲を恐れるような人もいるでしょうが、それでも主は用いてくださいます。
それは大きな希望であり、慰めです。

祝福を祈ります。
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2025年03月09日

2025/3/9早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書19:23-30です。

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「十字架につけると」(23)と、聖書では簡潔に書かれています。
十字架刑は体に釘が打たれるだけでも激しい痛みですが、それだけではありません。
体を貫通した釘に体重がかかって、激痛と大量の出血が起こります。
また肩にかかる力によって、呼吸困難になり、恐ろしい苦しみが襲います。
肩の関節や肋骨も歪み、はずれたことでしょう。
イエス様は全身から血を噴き出させながら、体を激しく震わせたと思われます。
そのような状況で以下にある出来事が起きました。

「下着」(23)とは一枚の大きなもので、物資の乏しかった当時は、一生大切に着るものでした。
多くは息子が12歳で成人するときに、母が愛情と祈りを込めて織ったそうです。
それを面白がってくじを引くほどに、イエス様は嘲弄されたのです。
さらにはそれを見ていた「イエスの母」(25)マリアは心が張り裂けるほどだったでしょう。
そのような苦しみさえ聖書に預言されていたのです。
それは私たちを救うための神様のわざです。
それほどにその愛は大きいということです。

またイエス様は耐え難い激痛の中で、母マリアの今後を心配して、ヨハネに「息子」(26)として面倒をみるように願いました。
願いというよりは、ヨハネなら喜んでそうしてくれるという、信頼に満ちた宣言でもありました。

イエス様の心の中にはどんな状況でも、人に対する愛があるのです。
イエス様は人としての弱さを持った状態で、そのように生きたのですから、私たちにも聖霊によってそれが可能であることを知って、主のために生きたいと願う人はそれを希望にしましょう。
自分の愛を過小評価しないで、大胆に人を愛しましょう。
またイエス様からそのような無限の愛で愛されている自分の価値に感謝しましょう。
何といってもイエス様の愛に感謝しましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月08日

2025/3/8早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書19:14-22です。

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「(皇帝)カエサルに背いてい」(12)るという言葉を出されて、ピラトは苦渋の選択をしました。
「イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した」(16)のです。
彼はイエスを助けたいと思っていましたが、それは真理のためや神のためではなく、ただことを荒立てたくなかっただけなのです。

自分さえがまんすれば丸く収まるからがまんするのも、美徳のようではありますが、真理のため神様のために勇気をもって決断しているかが問われます。

イエス様はそのような気の弱い支配者に翻弄されるのですが、神様のご計画とその主権は変わらないことがわかります。
「ユダヤ人の王」(19)というのは、すなわち旧約に預言されたキリストであることを意味しますし、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれたということは、ユダヤ人、ローマ人、ギリシア人という当時世界を代表する文化に対して、それぞれの救い主であるということが暗に表されているのです。

カエサルのようなこの世の権力よりも、偉大な神の全能に沿っていく勇気を持ち、永遠に変わらない希望を見ながら、決断しつつ歩みましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月07日

2025/3/7早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書19:1-13です。

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ピラトはイエス様を痛めつければ、それでユダヤ人たちの気が済むと思い、鞭打ちにします。
しかし人間的な思いつきでは人は変わることはありません。
あくまでも「十字架につけろ」(6)との叫びは収まりませんでした。

人は聖霊によらなければ、イエスをキリストと告白することはできません。
すなわち救い主として信じることはできないのです。
またクリスチャンも聖霊によらなければ、人格に実を結ぶことはできません。
聖霊によらずに、感情だけをなだめようとしても無益ですから、聖霊を求めましょう。

さらにピラトのように、鍵を握る人が自分を守ることに終始していたら、事態が収まるどころかますます悪くなります。
この時点で、ピラトには「何の権威も」(11)ないのです。

聖霊による権威を主からいただいて、解決に臨みましょう。
イエス様は全く弱い立場におかれながらも、その権威によって神のご計画を全うしたのです。

愛のゆえに自ら弱くなられたイエス様にこそ権威があることを覚え、イエス様の救いにこそ人を変える力があることを覚えて、人生の決断をしてゆきましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月06日

2025/3/6早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書18:28-40です。

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ユダヤ人たちがピラトに迫り決断させることによって、死刑とそれに関わるすべての預言が成就しました。
神様の計画は、敵の身勝手な行動さえも用いて実現するのです。

ピラトは神の国とこの世の国を混同しました。
また保身のためのことなかれ主義によって、神の敵となってしまいました。
真理のため、主のためならば、自分の立場を悪くしてでも立ち向かうべきときがあります。
自分の行動がピラトのようになっていないか、本当の勇気を持って行動しているか、吟味してみましょう。

バラバは、イエス様が死刑になることによって、自分が助かりました。
私たちの姿です。
自分は本来はさばかれるべき者であったことを、忘れないでいましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月05日

2025/3/5早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書18:15-27です。

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この世は完全にイエス様の敵となりました。
もう逃れることはできず、また弁護さえ許されない状況です。
今は「あの人の弟子」(17)であるということは、同罪を意味します。
ペテロは自分のいのちを守るためには、ここでは「違う」(17)と否定するしかありませんでした。

イエス様の弟子として歩むことには、大きな報いの祝福が約束されていますが、それは後のペテロのように、聖霊によらなけらば不可能なのです。

裏切ったペテロは後に、復活の主によって赦されて尊い使命が与えられました。
さらにペンテコステの日に聖霊に満たされた彼は、強められてキリストの証人になりました。
復活の希望と、聖霊の満たしによって、イエス様の弟子としての生き方を全うして、すばらしい報いをいただきましょう。

祝福を祈ります。
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2025年03月04日

2025/3/4早天メッセージ

本日の聖書箇所は、リビングライフにしたがって、ヨハネによる福音書18:1-14です。

本文とメッセージはこちら

神様はかつてご自身を表すのに「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジプト記3:14)と言われました。
これは何にも依存せずに、全く自立した絶対的な存在であることをあらわしています。
それゆえユダヤでは、神の臨在を「わたしはある」ということばで表したのです。

イエス様が「わたしがそれだ」(5)といわれたのは、ユダヤのことばでまさに「わたしはある」ということばです。
すなわち「わたしは神である」と宣言なさったのと一緒です。
兵士たちはその圧倒的な権威のもとに、立っていられなくなって、「後ずさりし、地に倒れた」(6)のでした。

イエス様は翻弄され、全く無力のようでしたが、その根底にあるのは、このような絶対的な神の権威でした。
ですから、ペテロの剣も計画を変えることはなく、また神に敵対する大祭司アンナスも「一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である」(14)と、意図せずに正しい解釈をしたのでした。
無力の中にも神の主権は変わらないということを信じましょう。

祝福を祈ります。
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